AIの話は技術論だけに留まらず、経済の世界でも問題を引き起こしている。
先ごろの東証のシステムが停止したのもAIによる超高速取引の取引がその根底にある。およそ人の技ではこれだけの取引データを発生されることはできない。
今回取り上げる記事のAIは技術論ではない。AIはもはや実社会に根付き、陰ながらその恩恵に浴している。先に述べた株取引はいうに及ばず自動運転もAIがあってのことである。某国営放送でも関連特集番組がシリーズ化されて放送されている。
その昔、機械であるコンピュータは計算をする道具であった。つまるところ道具は”人に使われて”初めて能力を発揮する。現代ではすでに道具としてのコンピュータは成熟期にある。技術的には不足する部分はあるものの、商業的には煮詰まっている、というのが産業界の見方である。
そこでAIを”道具”ではなく自立した”相棒”として扱うことを考え始めた。もちろんそれは能力の向上あってのこと、かつてはPDA(Personal Digital Assistant)が全盛だったこともあるが、あくまで”道具”、電子手帳の域を出るものではなかった。
PDAもネットにつながることで知識レベルが飛躍的に上がったものの、依然としてアシスタントをするだけである。ある意味”提案”してくれることもあるが、それも真似事でしかない。
コンピュータの能力のさらなる向上、知識ベースの蓄積、そして遂には”創造”する能力を獲得することとなればどうなるだろうか。少し前までならば夢物語でしかなかった想像の世界だったが、にわかに現実味を帯びている。俗にいう”自我”を持つという状態である。
そのとき、所有権の争いの域を突き抜けて、人でないものの責任問題となってくる。”自我”を持ったAIが”創造”して行動した結果は、創造者、つまりメーカ自身の行為とは掛け離れたところにある。
世界を滅ぼすような最悪の想像をするとすれば、それは映画「ターミネーター」の世紀末であり、苦悩するAIを想像するとすれば映画「ブレードランナー」の世界観である。
互いの生存権を脅かすものと考える以前に、その存在にどれだけ信頼を寄せるのか、の問題もある。”道具”であり続けるならば信頼できる存在だが、自我を持つとしたら騙されるかもしれないという猜疑心をもって付き合わなければならないだろう。
いずれとしても人類の歴史が証明しているように、”自我”をもった個がいつまでも道具として従ってくれるはずがない。いつかは隣人として認めなければならない時が来るように思えてならない。