JASRAC(日本音楽著作権協会)の演奏権による著作権料の徴収問題の決着はまだまだつきそうにありません。このブログでも何回か取り上げてきましたが(「著作権侵害(その3)」)、結論からすると音楽教室側の歩が悪い気もします。
この争ういの肝は何といっても「公衆」の定義です。著作権の運用において演奏権が及ぶか否かは、その演奏が「公衆」における行為かどうかということです。
今までの投稿で、文化の発展を下敷きとした心情に根差すもの、及び立法時の付帯文書などの主張があることを記載しました。現実社会の運用に照らせば、この主張は正しいように思います。
問題はすでに著作権侵害である判例が出ているということです。社交ダンス教室の事件ではJASRAC側が勝訴しているという事実です。これがあるためにJASRAC側は引き下がれないという事情があります。
また法的にも、心情論を除けば、演奏しているという行為にかかる認定も適法ですし、著作権者保護の必要性にも疑いは生じないのですから。
音楽教室側の主張は表向きには法の目的、つまり文化の発展に障害となるとしていますが、実際のところ”今まで支払ってこなかった著作権料を追加で徴収されると生徒も困るし、集客に悪影響が生じて運営が成り立たない”という既得権的な思想が見え隠れします。これは法的には既得権でもなんでもなくて親告罪という法制度において、見逃されてきただけに過ぎないだけなのです。
もしも音楽教室側が、JASRACが権利行使を怠ったとして楽曲を使用することを黙認していたとする情状を主張するとしても、現在存在する楽曲に対しては認められたとしてもこれから創作される楽曲に生じる著作権に対しては効力がありません。
つまりは、教室側が今までのやり方を変えない限りは、楽曲の演奏にかかる著作権料の支払いをしなければならないことに変わりはありません。
この世に”たら・れば”はありませんが、今のように社会構造が固まる前に著作権者側は音楽教室に対しても著作権料の徴収の手立てを講じていればこれほどこじれなかったかも知れません。そう考えると著作権者側にも権利行使の懈怠があることもまた参酌されるべきでしょう。
現代社会に対しいかばかりかの影響があることは分かりますが、法解釈をするのはあくまで裁判所です。裁判所が判断するとすれば、やはり判決は見えているように思います。